2017年12月8日金曜日

2007.06.03 二足の草鞋
                     (「湧水」)
                        
  二つの大病をして、人生観が少し変わった。四年前の左上葉部の肺ガン摘出手術、二年前の鬱血性心不全、残る人生が確実に短いことを悟った。長いばかりがいい人生ではない。短くても質のいい人生を探らねばならぬ。ならば、「言いたいことを言う」から「言わなければならないことを言う」に、「したいことをする」から「しなければならないことをする」にシフトを移していこうと考えた。
  これまでも、言わなければならないことを押し殺してばかりはいなかった。しなければならないことをためらってばかりではなかった。しかし、世の中の「流れに逆らわないでいさえすれば安心が得られて、面倒に巻き込まれることもなく、生活も安全である」(フランク・パヴロフ『茶色の朝』) という気持ちに支配されていたことを全くは否定できない。ならば、残る人生、旗幟鮮明に生きてみよう。
  去年の年賀状にはこう書いた。
 「(前略)さて、1945年日本人の平均寿命、男23.7歳、女32.3歳。戦地でも内地でもおびただしい人が亡くなった結果です。日本の軍人軍属の死者の6割は餓死。『生きて虜囚の辱めを受けず』がその理由。『あの時代が正しい、あの時代こそ日本、あの時代に戻そう』という声が大きくなっていますが戻してなるもんですか。」
  今年の年賀状には次のように書いた。
 「二足の草鞋を履いて歩きました。一つは久万高原遊山会、もう一つは憲法九条の会。前者は健康づくり、仲間づくり、生き甲斐づくりを目指すもの。二十五人の会員で毎月一回の山歩きを楽しみました。後者は憲法九条、殊に二項の『武力によらない平和』を続けようというもの。世界に誇れるものを絶対に変えてはいけない。…」
  2005年1月1日付け『愛媛新聞』は「戦後60年愛媛ー平和のかたち第三部教育」で、「教育委員会」の独立形骸化に関する特集をし、「行政の教育への介入を公然と批判する」私へのインタビュー記事を掲載した。2006年8月19日発足の『愛媛教育関係者九条の会』には準備段階から加わり、代表世話人の一人として動くようになった。2006年11月5日付けの『愛媛民報』の「アイラブ憲法」には「歴史に学び、まただまされる国民にはなるまい」を投稿した。 そして2007年4月26日には、2年近くの学習会を積み上げて、『久万高原九条の会』を立ち上げた。この会では、「(前略)もうすでに日本は『戦争のできる国』になりつつあります。歴史の教訓をかみしめ、『わたし一人がどんなにがんばったところで…』とあきらめず、『憲法九条を守る』この一点で、自分にできる努力を積み重ねて協同していきましょう。」というアピールを採択した。
  さきほど、二足の草鞋を履いて歩いたと述べた。『岩波ことわざ辞典』によると、「二足の草鞋は履けぬ」と本来は両立しがたい二つのことを行うのに使われたが、現代では、同時に二つのことをする意で用いられるようになったという。私の二足の草鞋はもちろん後者で、矛盾するものは何もない。それどころか、久万高原遊山会は、外部からの援助は受けない自主・自立の団体であるが、内部では協力と援助の関係で結ばれており憲法九条の理念と相通じるものがある。今日も、5月例会の目的地「大座礼山」(高知県大川村1588m)の下見をして帰り、この原稿を書いている。私は、どちらの草鞋を履くのも楽しい。

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