2012.05.29「ふるさと」はどこに
「湧水」
ある会議でふるさと論議があった。その会議が行うイベントで小学唱歌・童謡「ふるさと」を歌うかどうかについてである。高野辰之の歌詞はよく知られているとおり、次のようなものである。
兎追いしかの山
小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて
忘れがたき故郷
如何にいます父母
恙なしや友がき
雨に風につけても
思いいずる故郷
こころざしをはたして
いつの日にか帰らん
山はあおき故郷
水は清き故郷
日本列島では1961年、農業基本法が制定され、産業構造を工業化し、社会全体を都市化する高度経済成長路線に舵を切った。そのため、農村は工業化・都市化のため人材も土地も供給源となり、多くの農民やその子供たちが都市労働者・工業労働者として故郷を離れていった。そして、工場、道路、鉄道、住宅として、多くの農地も消えていった。工業製品輸出の裏支えをするために、小麦・大豆・飼料穀物などの大量輸入が始まり、単作化・大規模化が進み、大型機械と大量の化学肥料が投入されるようになり、ほとんどの農家が農業だけでは食えない時代が到来した。70年には前代未聞の減反政策が始まり、日本列島の農業は解体し農山村は過疎化・高齢化・「限界集落」に至っている。大量の日本人の故郷喪失、さらに今回は、東日本大震災により、人類史上最悪の原発事故が加わり、故郷喪失が悲劇的に加速した。童謡「ふるさと」を口ずさみたい気持は痛いほど分かる。
大震災後、「がんばろう」「きずな」「ささえる」「元気にする」のオンパレードになった。しかし、ここまで日本の国土を汚し、国民を危険にさらした電力会社、原発を推進してきた官僚、政治家、御用学者とメディア、このペンタゴン(五角形)と裁判官のだれも責任を償っていないし断罪もされていない。それどころか、人類の危機を放置しながら、新しい安全神話を作り、生き延びようとしている。これを許す状況を作り出すために、メディアや行政は童謡「ふるさと」のような叙情性の広がりを利用しようとしているように思える。
大阪維新の会と連携する松山維新の会は、13議席を占める市議会最大会派であるが、3月松山市議会定例会で、「国旗掲揚と国歌斉唱に関する決議」を可決した。「日本人が心一つとなり、国を再認識し強い愛着を抱き、自国の国旗、国歌を敬愛し、誇りに思うことは、国の伝統や文化を尊重し、郷土を愛する意識の高揚に資すると共に、他国を尊重し国際社会の平和と発展にも寄与する態度を養うことにもつながる」としているが、「と共に」以下は格好をつける付け足しだろう。
「ふるさと」は全ての人を暖かく優しく包み込んでくれるようなぬくもりや包容力を持っているかのようである。だが「ふるさと」もひとつの地域社会である。そこには、専制と隷従、格差や階層矛盾が存在しており、隠蔽することは出来ない。また、それらとの闘いなしに、社会は前進しない。「ふるさと」は無条件で「いい」のではない。いいところにする努力を必要とするところである。子どもや女は黙っとれ、よそ者はこの地に従え、年寄りは出しゃばるなという声が幅をきかす社会で、どうして人間として自立が出来よう。
日本人は「怒り」が不得意だという。故郷を奪ったものは誰なのかはっきりしているのに、「お上」の「健康に直ちに影響はない」という「大本営発表」なみの欺瞞に眠らされて、思考停止を続けていたら、これほど愚かなお人好しはないであろう。
原発は、稼働中でも停止中でも、人間の力で制御できないものであることが明らかになったし、原発までの入口のウラン鉱石採取の段階の放射能被曝は避けられず、原発から出る放射能ゴミの処理技術が全く存在しないことからも、脱原発(廃炉)の道しかない。大量生産・大量流通・大量消費・大量廃棄の巨大都市集中型の社会構造が原発事故を招いたのであるから、これからは、持続可能な食糧・エネルギーの自給自足をする地域分散型の社会構造に変えていかねばならない。
日本国憲法は、9条と前文で「平和のうちに生きる権利」をうたいこんでいる。命の尊厳と個人の尊厳は等価であろう。これらをあざ笑うかのように、威勢のいい発言をする政治家が、西にも東にも、中部にも現れ、かなりの人々が拍手を送るようになってきている。いつか来たおぞましい道を再びたどってはいけない。
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