2017年12月8日金曜日

2011.06.05   古里と今里

 
      室生犀星は、「小景異情 その二」でつぎのようにうたっている。
  ふるさとは遠きにありて思ふもの
 そして悲しくうたふもの
 よしや
 うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
 帰るところにあるまじや
  (後略)
     石川啄木には次のような歌がある。
  ふるさとの訛なつかし停車場の人混みの中にそを聞きに行く
  かにかくに渋民村は恋いしかりおもひでの山おもひでの川
  やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに
      放浪の俳人種田山頭火でさえ、
  ふるさとはみかんのはなのにほふとき
 年とれば故郷こひしいつくつくぼうし
 よばれる草餅の香もふるさとにちかく
 の句を詠んでいる。
    紹介した三人とも異郷の地で過ごしている。生まれも育ちも「悲劇的」で人から愛されることのない環境の中で劣等感や憎悪ばかり強くし、反発と野性と剛直さを養ったという室生犀星は、故郷にも背を向けているが、他の二人は郷愁を抱いている。
  大江健三郎は、愛郷心(パトリオティズム) は、自分の心の中で大切に思っているもの、先祖以来作り上げられてきた風景を、美しい、いいところだと感じる、好きだと思う心だといい、そのいいもの、懐かしいもの、美しいものを回復させようとする努力を生み出すものだとしている。さらに、その努力は、地域自身でやるのが主であり、都会へ出て行った人間は協力する義務があると論じている。

  「郷土」とは、生まれ育った産土(うぶすな)であり、住んで働く「風土」であり、生活の共同体である。そこを離れて住み、働けば、「郷土」は「故郷」となり、離れた場所は、「異郷」(「異土」) となる。
  私は、どこの地域社会にも、専制や隷従、圧迫や差別があることを無視することができない。そうしたものが当然の秩序であるかのように振る舞うことも、そうした矛盾を隠蔽して、ふるさとはほんわかとしたぬくもりのあるものとして包み込んでしまうことも賛同しかねる。一人一人が地域の主体となって営み、動かす主体であることを自覚していくことが大事だと思っている。
  私の郷土は、そう離れてはいないが小田であり、異土・久万に住んでいる人間であるが、私は古里への努力をせず今里(現里)のことばかり考えている。自分の住んでいる地域社会をよくする努力をする主力は、大江健三郎のいうとおり、そこに住む地域人自身であり、他地域に住む人々はありがたい協力者である。

   こういうことを根拠に、私は、かねてから、いろいろな提言をしてきた。
1 久万高原には、手つかずのあるいは手つかずに近い自然資源がたくさんある。多忙そのほ  かで地元の住民が知らなかったり、良さがわからなかったりしている。それを知ってもらい、味わってもらって、他地域にも発信してゆきたい。
  ①山・森・花=石鎚山系・皿ケ嶺ー石墨山系・中津明神山系・大川嶺山系をはじめとした山々は  優れた自然資源である。
  ②河川・渓谷・滝・淵=面河川・仁淀川は四万十川に劣らない清流、渓谷は深く刻まれ複雑多彩である。ご来光の滝・権現滝・遅越の滝等有名無名の滝・淵が豊富である。
  ③高山性の貴重な木の花・山野草の花が豊富である。
2 古来特異な発達を遂げた歴史と文化を持つ地域として、地域住民自身がそれ を知り、継承保存してゆきたい。
  ①上黒岩岩陰遺跡に見られる縄紋文化の始まり
  ②伊予の僻遠の地としての特別な発達を遂げた地域史
  ③大宝寺・岩屋寺をはじめとした仏教文化と遍路文化
  ④大除城をはじめとした中世城館跡
  ⑤土佐街道(土佐道) の特定
  ⑥久万山真景絵巻に描かれた地域の特定
  ⑦久万山の位置・地形・気候等の条件により、 特異な発達を遂げた山里(里山)の景観  と労働・民俗の記録保存
 ⑧「久万山騒動」「内の子騒動」を中心とした百姓一揆
 さきに、地域社会をよくするのは地域住民自身だと述べたが、地域住民団体は山ほどある。しかし、行政によって組織された団体はどうしても限界がある。そこで私は、この指とまれ式で集まった任意の個人でグループをつくって活動している。一つは、久万高原遊山会、もう一つは、久万高原九条の会、前者はまもなく十年を迎え、後者は4年を迎える。どちらもちっぽけなグループだが、月1回の例会と学習会、機関紙の発行を継続している。地味でも継続したら力になる。そして誘う対象は選別しない。趣旨に賛同してもらえることとその人にできる協力をしてもらうこととが条件である。
  1の①②③と2の③④⑤⑥はすでに実施に移っているし、2の④⑤⑥は町の支援も受けるようになっている。これらすべてに通じることだが、アクセスをよくすること(道の整備・標柱立て・ガイドマップの作成)とガイドの育成が急務である。行政に文句ばかり言っても始まらない。思いついたアイデアは提言し続け、できることからボランティアででも始めていけば、協力者は自然と増えてくるし、行政も援助せずにはおれなくなる面も出てこよう。

   今朝の愛媛新聞(2011・4・19)にスウェーデンの言語学者H・ホッジさんへのインタビュー記事が載っていた。彼女の著書『ラダック 懐かしい未来』は読んでいないが、これをもとにしたドキュメンタリー映画『懐かしい未来 ラダックから学ぶ』のDVDは手元に残っている。著書はヒマラヤ山脈西端にあるラダック地方の近代化に染まらない村の暮らしを描いたものだというが、私の見た映画は、それと共にグローバリゼーションに荒らされ、崩壊してゆくラダックが描かれていた。ホッジさんはローカリズムを主張し、その推進に国や自治体の積極的な関与が不可欠といっている。しかしながら現状は、国も自治体もローカリズムの維持発展に消極的というよりも否定的でグローバリズムにシフトを移している。

  大学時代の恩師であり、本誌『湧水』の銘をいただいた篠崎勝先生は、『地域社会史論』を提唱され、住民の記録係を自称して地域社会にしがみついた歴史運動を展開された。できの悪い、不真面目な学生だったが、「ここに、生き、住み、働き、学び、たたかい、ここを変える」に近づこうとして、もがいている。

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