2017年12月8日金曜日

 2017.05.29 改憲問題と主権者を育てる教育
                                         (「湧水」)


  久万高原9条の会例会で、自民党改憲草案で、現憲法97条がなぜ削除されているか議論した。97条はこうなっている。

   「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成 果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

  基本的人権の永久不可侵性を宣言したもので、次の条で、最高法規性を規定している。

97条削除の問題ー1
 この改憲草案は、現憲法98条と同じで、最高法規の根拠である現憲法97条との連続でこそ意味があるのであり、現憲法97条削除では最高法規の根拠を示したことにならない。立憲主義的憲法の価値は、人権の保障にあることを明確にしない最高法規規定は立憲主義の本質を欠いているというべきだろう。

97条削除の問題ー2
 私は、中学校の歴史教育に携わった一人として、もう一つの問題を提起したい。現憲法97条の「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」という表現と「過去幾多の試練に堪へ」という表現の歴史的重みを、自民党は消したかったのではないかということである。
  本多公栄著『生徒と共につくる社会科の授業』(74年明治図書)で著者は、中学歴史の授業について次の意見を述べておられる。
イ たえず民衆の立場に立ちながら、民衆自身ならびに為政者側の歴史を学ぶ。
ロ 日本やアジアに視点をすえながら世界諸民族にも目を広げる。
ハ 日本と世界の歴史がどう未来に向けて進んでいるか、進めていくかを学ぶ。
  私もイ項を強く意識し、特に「民衆の立場に立」って史実を掘り起こし拾い上げて歴史の授業にとりくんだ。そこから必然的に「人類の多年にわたる自由獲得の努力」を描くことになったし犠牲の多い「試練」にも触れなければならなかった。それでこそ歴史を進めた、歴史が進んだといえるのではないか。現在の自民党や内閣は、歴史を後戻りさせようとしている。抵抗権の根拠にもなる現憲法の97条は邪魔でしょうがないのであろう。修正を通り越して削除である。

 主権者を育てる
 もう一つ重要な本がある。安井俊夫著『主権者を育てる公民の授業』(86年あゆみ出版)である。
  著者は「まえがき」で「最近、子どもの中で『異論』を唱えることが少なくなったように思う」と。あえて自説を持ち出すことをせず、それに従うまでという雰囲気が強いのだという。本来、関係が成立するには、こちら側に「自分」があり、相手方にも「自分」が存在し、それが結ばれていくはずなのに、今の子どもたちの人間関係は、そういう「自分」と「自分」のつながりになっていない点だと分析している。自分の判断ではなくみんなの動きに従うという全体主義やファシズムの受け皿になってしまうと心配する。社会科だけでなく、教育そのものの課題として「主権者を育てる」ことが重要であると説く。
  ここで描かれている状況は30年も前の状況だが、今も同じだし、もっとひどくなっているともいえる。「中立であることが至るところで過剰に要求される。『政治的公平性』どころの話じゃない。『政治的無関心』こそが推奨される」(大澤聡、愛媛新聞) 状況だ。
  愛媛県教委の政治活動届け出義務化は「自分」を殺し萎縮させるもの、のびのびと「自分」をつくるよう助長することこそ教育の仕事だ。今の学校現場が気になる。これまでに述べた社会科だけでなく、学級会や生徒会が「自分たち」の問題を議論しているか。異論がたくさん出てこそ議論になる。そういう雰囲気や場がつくられているか。校長以下全職員がこの課題に知恵を絞ってこそ子どもたちの学校になるのではないか。

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