2007.08.24記 日本国憲法のすばらしさ
私は、近代の憲法というのは、一人一人の個人を守るために、権力を持つ者を法律で縛るものだと思っている。その意味で、日本国憲法は、前文も、一条から四十条までのほとんども政府の権利を制限している。大日本帝国憲法が天皇と天皇政府の権限を絶対的なものにし、国民を飢えと戦争に導き、東アジアを中心に搾取と破壊と殺戮をくりかえしていったことと比べてみると、いかにすばらしいものであるか明らかである。
第二にすばらしいと思うのは、憲法前文第二節の「われらは、全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」と、九条の戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認とがあいまって、世界の憲法史上初めて、戦争目的・軍事目的のために自由や人権を制限・侵害されないという「平和生存権」を認めていることである。
そして、第三に、日本国憲法のすばらしさは、「憲法を守る運動」から「憲法を実現する運動」を生み出し、理想主義の法典に魂を入れる営みを作り出したことである。朝日茂さんの二十五条最低生活権の保障訴訟、家永三郎さんの教科書訴訟、砂川・百里などの基地反対闘争、殊に、砂川訴訟では日米安保違憲判決、恵庭事件無罪、長沼ナイキ基地訴訟の自衛隊違憲判決を勝ち取り、安保反対闘争は全国各地で数千のデモや集会が実施され戦後最大の民衆運動となり、以後改憲を口にするのが難しい状況を生み出した。
しかしながら、今日、自民党は『新憲法草案』なるものを発表し、第一に述べた立憲主義を捨て個人の権利を抑え公益及び公の秩序を強調し国家の権利を拡大しようとしている。九条も、平易に言うと、「戦争はしません。だから軍隊を持ちません」から「戦争はしません。しかし自衛軍は持ちます」になり、自衛の口実で戦争ができるので、第二のすばらしさも消えてしまう。いつか来た道である。
戦後長い間、日本人の多くは都市空襲や原爆投下など敗戦間際の被害者意識に基づく平和主義が支配的で、同胞の沖縄の辛苦にも共感する意識を持てず、ましてや明治維新以来の東アジア侵略の加害の事実には目をそらしてきたように思う。侵略者であった加害の償いが平和運動の視野に入らない弱さが、今日の靖国参拝への対応や改憲論を容認する意見の中にくみ取れるような気がする。
歴史はうそをつかない。戦争はいつも「自衛のため」という名分で遂行された事実、軍隊は国家・国体を守るもので国民を守るものではなかったことを示す沖縄での皇軍の所業、ソ連の満州侵入に対する関東軍の無責任、武力よる平和はいまだ中東問題を解決していない事実、ドイツの戦争責任の償いから始まったEUの誕生に至るこれまでとこれからは戦争の可能性がない現実、これらを確かに捉える眼を持ち、もう一度だまされる国民にはなるまい。
今、戦争をしない、戦争に加担しない、海外派兵をしない、といった「しない平和主義」から、テロも戦争も裁判にかけよう、NGOで学校をつくろう、東アジアに平和の枠組みをつくろう、などなど、今までになかった「する平和主義」の運動が起こっている。そうしたしなやかな知恵にも学んで、なんとしても改憲を阻止したいものである。
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