2014.06.03 「木を見て森を見ず」の結果
(「湧水」)
つい最近、「教育勅語」の原本が確認されたという記事が「愛媛新聞」に報じられていた(4月9日付け)。関東大震災で文部省庁舎が焼けた際に損傷していたが、62年に公開されて以来所在不明になっていたものがみつかり、国立公文書館に移管し、修復を進めるのだという。今ごろなんで…という気がしないでもない。
私に近い友人が、「教育勅語」はすべてが悪いのではない、いいことも示しているといったことがある。なるほど、「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし、学を修め業を習い以て智能を啓発し、徳器を成就し、進で公益を広め……」というのはさほど異議を挟めない。しかしである。
「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」(いったん国にことある場合には、勇気をふるい、一身をささげ、皇室国家のために尽くす)るのが「臣民の道」であり、「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」に収れんしている。つまり、夫婦が仲良くするのも、学問を習うのもすべては皇室の運勢をますます盛んにすることに他ならないのである。これは第二段の内容であるが、第一段は、天照大神以来の天皇が日本を支配する国体であり、教育の源もここにありとし、第三段は天皇が臣民とともに以上のことを守るべきとし、全体として、忠君愛国と忠孝の道徳を強調している。
「教育勅語」は天皇から首相・文相への下賜という形式をとり、印刷謄本も各種学校への下賜であった。「教育勅語」は「不磨」の憲法と呼ばれ、教育についての最高の勅令として、徳育の基本とされた。
このように、「教育勅語」は形式においても、内容においても、民主主義の理念に相容れないものであり、これが本質である。先ほどの友人の発言は、「木を見て森を見ず」となっている。
「教育勅語」の徳目数を超える徳目の内容が、一次安倍内閣で成立した「教育基本法」第二条にある。学習指導要領の「教科」「道徳」「特別活動」「総合」の四領域があるのに、「道徳」にかかる目標のみを「教育目標」とするのは、戦前の「修身」を筆頭科目としたのと同様に、教育を道徳教育に一元化していく志向が読み取れる。
日本近代史を振り返ってみると、教育は戦争への露払いの役目を担ってきた。一次安倍内閣が、国民投票法とともに、教育基本法の改定をしたのも、二次安倍内閣で次のような政策が着々とそれも急ピッチで進められているのもそのためであろうと考えられる。
① 道徳の教科化 子どもの心を 国家が管理
② 教科書検定基準の改悪 教科書の国定化へ
③ 教育委員会制度の改変 首長主導型地方教育行政
④ 学制の複線化 「人格の形成」でなく「人材の育成」である。
とび級 産学連携 大学評価システム 予算等の資源再配分……理研や小保方さんはその犠牲ではないか。
⑤ 小学校英語教育教科化 国際競争に打ち勝てる少数のエリートの育成
これらの教育政策の結果として、国際競争に打ち勝てる少数のエリートと使いやすい使い勝手のいい労働者・兵士になるようなノンエリートが大量に生み出され、「世界で一番企業が活動しやすい国」づくり?大企業のもうけが増える国になってどうなるのか。内心への介入と支配が進み、ものもいわない人間ばかり増えて、命を落とす人間が多くなってしまっていいのか。
付 廃仏毀釈から石仏を守った民衆
攻撃に対して、防御が必要なことがある。この写真の石仏は、久万高原町美川地区、藤社(ふじこそ)の奥地の岩陰にある。天保9年、10年、11年、12年の刻印があるから、1838年から41年のもので、新四国、新西国の札所である。
もともとは美川古道とも呼ぶべき生活道に設置されていたと思われるが、写真のような岩陰等の場所に移されたと思われる。郷土史家(故人)は、「明治初年の廃仏毀釈によって、この種の石仏類が、荒波にさらされたことは、容易に推測できるが、実際に調査を始めて見ると、当時の人々の信仰心の深さと、それを守ろうとする知恵に驚かされるばかりであった。集められた場所も、人里離れた山中で、容易に人が近づけないようなところを選んでおり、当時の官憲の目を逃れるための、人々の苦心の跡が忍ばれるのである。」と記している。
明治初年と今日とは全く違うはずである。国家にも権力にも金力にも縛られない、自立した人間が多くなっているはずである。憲法を基にした平和な日常、いのちとくらしを守る闘いを、知恵を出し合って続けたいものである。
参考文献 藤田昌士「道徳教育」エルディ研究所
美川村教育委員会編「美川の歴史と民族」
0 件のコメント:
コメントを投稿