中学2年生の国語教科書だったと思うのだが、斎藤茂吉の短歌が載っていた。短歌学習の単元で、他の作者とともに掲載されているので、たった3首だったと記憶している。
みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり
茂吉の代表的歌集『赤光』の中の「死にたまふ母」が出典である。59首が収められている。なぜ「死にゆく母」「母の死」でなく「死にたまふ母」なのか。日本古代文学史が専門の西郷信綱氏は、その著『斎藤茂吉』の中で、この疑問から出発している。「たまふ」という助動詞は、「目上の者の行為に対する感謝・敬意を表す」(岩波古語辞典)言葉であり、「死にたまふ母」は「死になさる母」あるいは「お亡くなりになる母」ということになるだろう。これほどまでの敬意を傾けて歌う茂吉と母との関係はどんなものであったろう。
西郷さんは、芳賀徹さんらの研究論文を援用しながら、山形守谷家の三男に生まれた茂吉が婿養子として親戚筋の斉藤家に遣られた契機を重視する。脳を冒されて口もろくにきけない死の床に伏す母のもとへ急ぐのは、1913(T2)年5月、もう32歳にもなる茂吉はまだ結婚していなかった(斉藤輝子と結婚するのは翌年)。茂吉自身が「・・・母は農婦として働き、農婦として私ら同胞を育て上げたのであるから・・・」と述べ、他家の養子となり、東京に住しても、自らを「みちのくの農の子」と考える茂吉にとって、母が古里を象徴する存在の核であったろうと推測する。だからこそ、死に臨んだこの母とこの息子との間には、余人のうかがい知れぬ深いもの、「二人だけの世界」があったろうという。その「二人だけの世界」の密度を考えるなら、茂吉自らそうしたくて添い寝をしたものに相違ないとみている。
ここまでは、婿養子として他家へ遣られたことを除いて、私と母との関係に似かよったものがある。
しかし、守谷家は、自作農兼小地主、「村で中位より一寸いい程の生活」であったというが、私どもは傾斜地の狭い耕地しか持たない極貧農であった。また、人物として、彼は高等科を首席で卒業し、その後一高、東京帝大医科大学に入学する逸材であったのに対し、私はずいぶんかけ離れた距離にある。さらに、西郷さんは、柴生田稔さんの「どういう社会関係の中にあっても既成の秩序にあまり疑問を挟まず抵抗を感ぜず、その中におのずから自分の世界を作って進むという風であった」という性向描写を紹介しておられるが、私は真逆である。
佐藤春夫が、茂吉のことを次のように回想しているという。「我らが茂吉は都会人のやうな田舎者、もしくは田舎者のやうな都会人であった。・・・彼は自分には古代人のやうな近代人、もしくは甚だ近代的な古代人のやうな気がした。・・・彼は思ひきってヤボなダンディ、深刻な好人物、洗練された野人であったと思ふ。」 うらやましい資質である。
最近亡くなった母と私の関係に戻るが、私は、母が好きであった。31歳で戦死した夫(私の父)の意思を継いだまでだというが、私を大事に育ててくれた。こうせい、ああせい、こうあるべきだ、といったことはほとんどなかったが、わたしは好きな母がすることを自然にまねていたのだろう。物を粗末にしない、捨てない、記録をとる、人にきちんと話し、きちんと聞く、他人の好意にはちゃんとお礼を言う、遊んでないでまじめに働く、自分を飾らずつつましやかに過ごす、チャンスが来たとき生かせるよう日頃から努力して準備する、等々であるが、まねできてないことも多い。
母は、茂吉が「死にたまふ母」を歌った1913(T2)年に生まれ、2013(H25)年に死んだ。満99歳だった。亡くなった3月9日は、77年前の結婚記念写真を撮った日であり、短くして別れた父を追ったのだろうと思わしめた。葬儀で弟が歌った「かあさんの歌」は、母が農婦であり、私たち兄弟が「農の子」であったことを示していたかもしれない。
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