2012年12月30日日曜日

茶色の朝


 「茶色の朝」という本がある。「愛媛新聞」は2004年4月10日に、文化欄で大きく紹介した。日本語版は50ページにも満たない薄い本である。もとはフランスでベストセラーになったもの。茶色はナチスの制服の色で、ファシズムや全体主義の象徴である。著者はフランスの心理学者フランク・パブロフ。ヨーロッパで急速に台頭してきた極右勢力に抵抗する意味を込めて執筆したという。 これは寓話であり、全てが茶色になっていく、全てが茶色でなくてはならない国の物語で、茶色以外のペットが禁じられ安楽死させた友人のことを知った主人公は違和感を覚えるが聞き流す。「街の流れに逆らわないでいさえすれば、安心が得られて、面倒に巻き込まれることもなく、生活も簡単だ」と流れに乗って暮らす。小さな譲歩を重ねていくうちに批判的な新聞や本が廃刊になり、住民相互の監視も強まり、続々と逮捕者が出始めた。 みんなそうしているのに変わったことしない方がいいとする、町や村の普通の人に見られる自己保身の姿だが、笑えない。自身の姿でもあるから。景気後退や高い失業率など社会不安があると、威勢のいい人の言動や強力なリーダーシップを持った人に引きずられ、自分自身の考えを捨ててしまう。それが悲劇的結末を迎えたことは、ナチに支配されたヨーロッパだけでなく、日本でも国家主義の風潮が大きくなり、東アジアを中心とした諸国民への加害と自国民への被害が甚大であったことは記憶に残っていよう。
 今回の衆院選で「改憲」というより「壊憲」という勢力の台頭は、1930年代のドイツを彷彿させる。 1928年のドイツではナチスが2.6%の得票だったが、30年の選挙で18.3%、33年3月の選挙では43.9%、33年11月の選挙ではナチスのみの出馬で92.2%、独裁体制となっていく。「民意」はフアッとしたとりとめのない存在にもなり、時に暴走さえする。その再来にならないよう、私たち一人ひとりが、見解の異なる人と対話し、賢い民主主義者にならなければならない。
       参考文献 冒頭紹介の「愛媛新聞」と「週刊金曜日」12/12/14 水島朝穂氏の論文


2012年11月18日日曜日

民主主義と立憲主義


1689年 1789年 1889年 1989年
 この100年違いの年表が何を示しているか。
1689年は、イギリスで権利の章典が生まれ、
1789年には、フランスで人権宣言が生まれ、
1889年には、日本で大日本帝国憲法が生まれた。そして、
1989年には、ソ連・東欧圏で一党支配体制が崩壊し、世界史は大きく変わった。
  権利の章典は、絶対王政を倒した後のクロムウェル独裁を経て、議会を中心とする体制(国民主権)を新しい王権との間で協定したもの、 
 人権宣言は、フランス革命によって人民主権(国民主権)を確立した文書、
 大日本帝国憲法は、ドイツに学んで、絶対王政の天皇制とその王政が事実上無視できない力を持つ帝国議会がバランスを保つはずの政治の仕組みを作った。
 ソ連・東欧圏では、一党支配崩壊後、憲法裁判所が軒並み作られるようになる。
 この四つに共通するテーマは、「民主主義」と「立憲主義」である。前二者イギリスとフランスは「民主主義」、後二者日本と日本が学んだドイツとソ連・東欧諸国は「立憲主義」である。
 「民主主義」は選挙で多数を取ることで権力を握る。国民(人民)の名において権力を行使する。民主を推し進めれば進めるほどまっとうな世の中になっていくという期待があったが、しばしばそれは惨憺たる結果をもたらした。ヒトラーのナチスは民族社会主義ドイツ労働者党、人民の選挙で第一党となってワイマール憲法をひっくり返してしまった。スターリンは人民の名において「人民の敵」を粛正し、ユーゴスラビアのミロシェビッチも選挙で権力を握り権力を強化した。イラクのサダム・フセインは選挙ではないが国民投票での支持で人民の名の下に統治を行った。
 対する「立憲主義」は、権力に勝手なことをさせないという考え方であり、ドイツ帝国憲法がその最初であった。ドイツには300を越える小さい国家があり、統一が困難であったが、プロイセンがナポレオン3世のフランスに勝ってドイツ帝国の統一がなり、1871年憲法を持ったのであった。プロイセン国王がドイツ皇帝になり、君主権力が非常に強い。対する議会は決定的に優位に立つところまではいかない。君主といえども勝手なことはできないけれども、議会も圧倒的な優位には立たせない、つまり権力の相互抑制という性格を持った仕組みである。これを「立憲主義」という。イギリスやフランスは「民主主義」であり、ドイツは「立憲主義」であった。そのドイツも「ワイマール憲法」で民主主義となり、先ほどのヒトラーを生み出してしまう。そのドイツ帝国憲法をお手本にしたのが「大日本帝国憲法」であり、その成立の中心になった伊藤博文も井上毅も君権を制限し臣民の権利を保護するのが「立憲主義」だと考えていた。「民主」の名において非人間的支配を行ったソ連・東欧の一党支配の崩壊後、「立憲主義」の復権が始まったのである。大統領・首相、議会も選挙で選ばれる「民主」であるが、議会の作った立法をも憲法を基準として無効と判断できる「憲法裁判所」が西ドイツ・イタリアに始まり、スペイン・ポルトガルと広がり、旧ソ連・東欧圏にも続々作られていくようになった。民主主義社会においては、多数派による権力行使にも歯止めを掛けるという意味で「立憲主義」が唱えられている。
 日本国憲法に規定される「違憲立法審査権」、日本の裁判所はどこまでだらしないのか、腹立たしい限りである。しかし、近い選挙、「民主主義」の負の面だけでなく、正の面も立証したいものである。
  参考文献 樋口陽一「個人と国家」(集英社新書)
  

2012年10月29日月曜日

五代ケ森を四国百名山に


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藤岡 弘、とモーニング娘。

2012/10/15 (月)

藤岡弘、とモーニング娘。

 10年も前に、私は、藤岡弘から、名刺をもらった。彼は、我が町(久万高原町)の出身である。「仮面ライダー」で一躍スターになったが、渋い味のある演技もでき、円熟味がましてきた。彼の名は、ここの写真からも分かるように、「藤岡弘、」である。彼は、1984年、アメリカ映画『SF ソードキル』で、侍を演じることになったが、史実と異なる侍像が出ており、その修正に粘り強い説明を続け、結果として「侍」は高い評価を受け、日本人として初めて米国俳優協会の会員となった。このことをきっかけにして、昔の武将は一度「、」を打って決意した、周囲に流されることなく、立ち止まり、自分を見つめるという覚悟と、我、未だ完成せずとの意味を込めて、改名に踏み切ったのだという。本場ハリウッドというネームバリューに流されなかった不動の「芯」が感じられ、心地いい。座右の銘も、「天命に生きる」と「不動心」である。別の談話で、「、」でダメな男といういみも掛けたという。
 

 対する「モーニング娘。」である。かなり様子の違ったものである。
つんくの命名では「。」がついていなかったが、「ASAYAN」のテロップをつけるスタッフは、「。」をつける癖があって、そうなったという。『うたばん』で『。』について聞かれた時、メンバーのほとんどは『不要』と答えたが、安斎勝洋の姓名判断で、『。』が入って23画になり、理想的なグルーブ名となったとの発言で、定着していったようである。何とも頼りない話である。
 この違いでは、地元びいきが過ぎるとは言われないであろう。好き嫌いは別の問題である。

(ウィキペディアを参考にした。) 
作成者 tsurarenaisakana1 : 2012/10/15 (月) 23:31 [ コメント : 0

さいたさいたセシウムがさいた

2012/10/6 (土)

さいたさいたセシウムがさいた

 アメリカ・ミシガン州生まれで来日して20年になる、詩人アーサー・ビナードさんが国際女性デー埼玉集会の講演に、標記のタイトルをつけたら、抗議で中止になったという。今年3月の出来事である。
 戦前の小学校国語教科書「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」で始まり、「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」と戦争に駆り立てた国語教科書を素材に、、彼は、桜の花が「咲いた」と原発が地域の和を「裂いた」と掛けた意味を込めたのが通じなかったらしい。現実を直視する力と想像力の貧しさを示す事件であるが、そのビナードさんが、岩手生まれの、若松丈太郎という詩人を見つけ、サーファーにもホッキ貝にもムラサキツユクサにも注目すると同じ視線で、東京電力という巨大企業の問題も、政府高官や専門家たちの煙幕も鋭くとらえ、実態を鮮やかにあぶり出し、読者の想像力に大きな広がりを与えながらも、本質に切り込んだとして、彼の詩を英訳して出版した。『ひとのあかし』である。その表題詩を英訳でなく、日本語で紹介する。

ひとは作物を栽培することを覚えた
ひとは生きものを飼育することを覚えた
作物の栽培も
生きものの飼育も
ひとがひとであることのあかしだ

ある時以後
耕作地があるのに作物を栽培できない
家畜がいるのに飼育できない
魚がいるのに漁ができない

ということになったら
ひとはひとであるとは言えない
のではないか

『ひとのあかし』は、清流出版 1800Yen 
斉藤さだむさんの写真もいい
作成者 tsurarenaisakana1 : 2012/10/6 (土) 16:45 [ コメント : 0]

動く轆轤(ろくろ)の動かない芯

2012/9/29 (土)

動く轆轤(ろくろ)の動かない芯

 私は下戸であるのに、薩摩焼15代沈寿官の黒千代香を持っている。写真のようなものだが、毎年、年始に愛用している。それは、先代沈寿官氏にまつわる次のような出来事に深く感銘してのことである。1993年、小田中学校の少年式の式辞から引用する。
 (前略)鹿児島県苗代川に住む薩摩焼14代当主沈寿官さんは、小学校入学式の日に、ろくろ始めの儀式をしてもらっています。寿官さんは、お父さんのろくろの脇に立たされ、ろくろに注意するようたしなめられます。お父さんは一蹴りして「どうだ」と問いかけます。幼い寿官さんは「よく回ります」と答えると、今度は陶土を親指の先端ほどの大きさに丸め、ろくろの中心にしっかりと据え、仕事着の胸の先に刺していた縫い針を抜き取り、注意深く陶土の中央にその針を立て、またろくろを蹴りました。「不思議なことをするなあ」といぶかる寿官少年に「今度はどうだね」と尋ねました。「よく回ります」と同じ答えを返すと、「針はどんな具合かね」と聞きます。よく見ると、ろくろは回っているが中心に立てられた縫い針は微動だにしない。そこで、「ろくろは回りますが針は動きません」と答えると、お父さんは満足そうにうなずいて静かに次のように話されたというのです。
 ろくろの真っ芯に陶土を置く、そして陶工の指が陶土を透かしてろくろの芯をしっかりととらえた時、陶土は魔法のように伸びて陶工の心のままに形作ることが出来る。動くろくろに心を動かすな、動かない芯に心を張りつけよ・・・と。
 簡単な儀式であったのに、寿官少年は口に言えないほど強烈な感動が体の中からたぎりたち、以来、生涯のテーマとなります。(後略)

 動くものが表面に現れる諸々の現象とすれば、動かない芯はその底にある真理・真実・本質とでもいうべきものだろう。私も大学時代からは、そんなものを捜してきたような気がする。見つかっていないものが多いのではあるが。
作成者 tsurarenaisakana1 : 2012/10/5 (金) 13:39 [ コメント : 0]

前向き・後ろ向き

2012/9/29 (土)

前向き・後ろ向き

 スウェーデンの言語学者、ヘレナ・ノーバーグ・ホッジさんに、「ラダック 懐かしい未来」という著書がある。私は、この本は読んでいないが、映画「懐かしい未来 ラダックから学ぶ」を見て、大変心を打たれた。ヒマラヤ山脈西端にあるラダック地方の、近代化に染まらない1980年代までの村の暮らしと、その後、近代化(グローバル化)によって、「あれほどの輝きと生命力、そして世界の中心にいるのだという誇りを持っていた人たちが、開発の物語の中で、強大な科学技術の力の下に組み込まれ、お金を中心としたシステムの文脈におかれた結果、今では自尊心を失い、『辺境に押し込められている』という劣等感に苦しみ、しょげかえってしまっている。」(『いよいよローカルの時代』)状況が対比的に描かれていた。
 彼女は、グローバル化に対してローカリズムを提唱するのだが、グローバル化が進めば、文化も人も単一化する。資源が無駄に使われ、環境も汚染される。危機を打開するには、経済を小さい単位にしていくことだという。『愛媛新聞』は昨年4月19日に彼女の活動を紹介し、つい最近、9月5日には、ラダック人と結婚して1女を生み3人で暮らす池田悦子さん(37)の生活を紹介している。「昔ながらの自給自足社会が変化しつつあるラダックで、古民家を再生することから新たな生活を始めた」池田さんは、「古いものを捨て便利さだけを追求する考え方から踏みとどまりたい」と語っている。
 今、私の手元には、ヘレナさんと辻信一さんの共著『いよいよローカルの時代』がある。その序文に、辻さんはこんなことを書いている。スローライフの講演をすると、それって、過去に戻れということじゃないですよね?といわれるそうである。「前向き」「未来志向」「頑張る」など「前へ進むものとしての人生」でしかとらえられなかったから、「懐かしさ」という価値がおとしめられてきたのだと辻さんは分析する。その「後ろ向き」ととらえられる「懐かしさ」とこれから進む前にしかない「未来」という背反する二つの言葉をつないだ『懐かしい未来』は、私もはじめはいぶかった。ドキュメンタリー映画を見てすぐ分かったことではあるが。
 ヘレナさんはこういっている。私たちは、たとえ望んでも、後戻りは出来ない。調和を踏みにじってきたこれまでのやり方はすでに破綻しており、未来があるとすれば、それはあの懐かしさに満ちたあの調和の中にしかあり得ない。そこへ回帰することであると。
 いいものに戻すことは、「後ろ向き」「後戻り」というより、回帰というべきなのだと思った。
  参考文献 ヘレナ・辻信一『いよいよローカルの時代』大月書店
       地図は『愛媛新聞』2012.09.05
作成者 tsurarenaisakana1 : 2012/9/30 (日) 19:55 [ コメント : 0]

天晴元年

2012/9/22 (土)

天晴元年

 高知県、旧吾川村と旧池川町の境界に鈴ケ峠というのがある。標高約840mのところで、旧松山街道(黒森越え)の要所であり、吾北と越知をつなぐ最短の道で、庶民の交易の道であったし、幕末には脱藩の道にもなり、明治元(1868)年には松山征討の土佐藩兵2000人が通った軍旅の道にもなった。松山街道というのは土佐側の呼称であり、伊予側では土佐街道と呼んでいる。また、この峠には、旧池川町教育委員会による木製の標柱が立っており、ジョン万次郎帰国の道とも書かれている。 その鈴ケ峠に、金比羅遙拝の2基の灯明台が立っているが、その1基は「明治7年3月19日」と刻まれており、もう1基には「天晴元卯9月18日」とある。写真の通りだが、「天晴」という年号は聞いたことがない。高知県の郷土史家・山崎清憲さんの「土佐の道」によると、ここだけでなく、高知県内各地に同年号が散見され、幕藩体制に対する庶民の世直しへの期待が、この年号を生み出したが、「明治」と改元され、「天晴」は実現しなかったと推論されている。筆者は、「卯」年は慶応3(1867) 年と特定し、改革(革命)前夜のことと推論するのだがいかがなものか。 この旧松山街道を、久万高原遊山会が、明日歩くことにしている。越知町薬師堂までマイクロバスで行き、松山街道に沿って黒森山(1017m)を経由して鈴ケ峠へ行き、旧池川町南谷へ下る。私は、別の用件があって参加できないのだが、下見には行っている。自然と歴史のロマンと現状認識に得がたい経験となろう。 :e8dw
作成者 tsurarenaisakana1 : 2012/9/22 (土) 18:27 [ コメント : 0]

「東温アルプス」と「久万山回廊」


2012/9/20 (木)

「東温アルプス」と「久万山回廊」

 東温市と久万高原町の境界に横たわる山地が、近年「東温アルプス」と呼ばれるようになった。その名称がずっと気になっていた。
 一つは、○○アルプスといった類のネーミングの着想である。
 二つは、その「東温アルプス」の主峰ともいうべき「皿ケ嶺」と「石墨山」は大部分と全域が久万高原町分であることである。
 第一のことに関しては、昭和33年時点ですでに、旧制松山高等学校山岳部を指導され、愛媛の近代山岳会指導に尽力された、東温市井内大平に生を受けた故北川淳一郎氏が次のように指摘しておられる。「全国至る所に何々富士があり、また一時各地に何々アルプスが出来たのもこの轍だ。人間の心の一面には、こうしたいやなもの、いつの時代、いずれの国でも免れることが出来ないものとみえる。」(北川淳一郎「四国山岳夜話 上」東雲書店発行) 
 最近では、市町村合併で、山梨県に「南アルプス市」が誕生したのがその典型であろう。
 第二のことに関しては、山には、見る側によって、呼称が異なることがある。四国の名山「三嶺」は高知県では「さんれい」と呼び、徳島県では「みうね」と呼ぶ。地元久万高原町の岩峰は直瀬側からは小滝山といい、畑野川側では大滝山という。さきの「東温アルプス」1315.8mの山は、東温側では梅ケ谷山であり、久万高原直瀬側からは、サル口山と呼んでいる。
 山を歩く人には、道の整備と案内標識が最も大切であり、東温側では、「さくら山行会」による毎年の道作りと市による案内板設置がキチンとされている。敬意を表したいと思うし、久万高原側の遅れを痛感しているのだが、ここで、久万高原側からも、登山道整備や案内板の設置と共に、名称もつけたいと思う。私的な提案だが、「久万山回廊」というのはいかがだろうかと思う。自然の中で生きとし生けるものみな、ここを周り歩き、命をつないでいくものでありたいと願うのである。
作成者 tsurarenaisakana1 : 2012/9/20 (木) 12:39 [ コメント : 0]

里山と山里


2012/9/17 (月)

里山と山里

最近、新聞や雑誌に「里山」という表現を多く見るようになった。私は、久万高原町という、「限界集落」の多い小さな町に住む者だが、小さいながらも、地域資源を発掘し、保全し磨き活用し、その資源に物語性を吹き込んで、お宝に仕立てたいと思っている。山、川・滝・渕、そして山里を考えていて、実際に存在する好ましい山里をリストアップしてみた。表題に「山里」と入れようとして、「里山」ともいうなあと気が付いたのである。一体どっちがいいのか。手元にある国語辞典を引いてみると、「里山」は見出し語に出てこない。講談社の「類語大辞典」には、「人里」「村里」とともに「山里」があり、それには、「やまかいの里」とある。私のような古い人間には、「山里」は山間部にある里であり、それは小さな集落である。上にある「山」は飾りであり、下にある「里」が本体であると信ずるのである。「里山」といったら、小さな集落にある山を指しており、「山」を表現した言葉であるというべきだろう。私の関心は、懐かしく美しい「里」にあり、タイトルは「山里」で押し通したいと思う。山は、石鎚をはじめとした名山がたくさんあり、「山」のタイトに入るのは目白押しだ。
 ここまで考えてきて、「里山」と表現する人は、「里にある山」の意で使っておられるのか、「山里」と同義で使っておられるのか、新しいニュアンスをもった最近の造語として登場したものをそのままとりこんでおられるのか、さらに疑問は広がってくる。年寄りの小理屈といわれそうなので、もうやめることにする
作成者 tsurarenaisakana1 : 2012/9/18 (火) 18:17 [ コメント : 0]

釣られない魚

2012/9/16 (日)

釣られない魚

南淵明宏さんに「釣られない魚が大物になる」という著作があります。 

 
その序文「はじめに」で、医者・医療の世界で、「何の役にも立たない論文を書くための動物実験に知力と体力を注ぎ」、本業とは無縁の「虚業の人生」を送っている典型的な例として、大学病院の医者を挙げています。その人たちを「人に釣られた」魚だとし、会社組織の職員や国会議員にまで言及しておられます。「自分で何をやっていいかわからない、そうこうしているうち、知らない間に都合のいい価値観を誰かに都合良く『吹き込まれ』『すり込まれ』、気が付くと馬車馬のように走らされている人たちのいかに多いことでしょうか」と嘆いておられます。

 反対に、「自分の感性をたいせつにし、信念を持ち続けた人たち」は、最後まで釣られなかった魚として、育って大物になっているとおっしゃいます。

 私は、最近、自分史「でんでんむしの詞(うた)」を上梓しました。進呈して読んでいただいた方々から、お礼の手紙や葉書を戴いたのですが、かなりの方から、「ぶれない生き方を持ち続けられたことに敬意を表します」とあったのは、社交辞令ではあるでしょうが、嬉しいものでした。


 近視眼的に利を求めたら、釣られてもいい、権威・権力のある人のそばにいるのがいい、財力のある人のそばがいいということになるのでしょう。最近、私どもの地方の町長選挙でも、現在進められている大政党の総裁選・代表選で、国会議員たちも地方議員たちも、政治理念や政策はそっちのけで、多数派工作の政局に明け暮れています。消費税増税、原発再稼働、オスプレイ配備から、自殺者、生活保護受給者、「孤独死」の増大など、本当に政治が取り組まなくてはならない問題がそっちのけになっています。やはり、私ども一人ひとりの自立・自治の力が高まらないと、世の中は変わらないでしょう。
作成者 tsurarenaisakana1 : 2012/9/18 (火) 17:45 [ コメント : 0]