2012/9/22 (土)
天晴元年
高知県、旧吾川村と旧池川町の境界に鈴ケ峠というのがある。標高約840mのところで、旧松山街道(黒森越え)の要所であり、吾北と越知をつなぐ最短の道で、庶民の交易の道であったし、幕末には脱藩の道にもなり、明治元(1868)年には松山征討の土佐藩兵2000人が通った軍旅の道にもなった。松山街道というのは土佐側の呼称であり、伊予側では土佐街道と呼んでいる。また、この峠には、旧池川町教育委員会による木製の標柱が立っており、ジョン万次郎帰国の道とも書かれている。 その鈴ケ峠に、金比羅遙拝の2基の灯明台が立っているが、その1基は「明治7年3月19日」と刻まれており、もう1基には「天晴元卯9月18日」とある。写真の通りだが、「天晴」という年号は聞いたことがない。高知県の郷土史家・山崎清憲さんの「土佐の道」によると、ここだけでなく、高知県内各地に同年号が散見され、幕藩体制に対する庶民の世直しへの期待が、この年号を生み出したが、「明治」と改元され、「天晴」は実現しなかったと推論されている。筆者は、「卯」年は慶応3(1867) 年と特定し、改革(革命)前夜のことと推論するのだがいかがなものか。 この旧松山街道を、久万高原遊山会が、明日歩くことにしている。越知町薬師堂までマイクロバスで行き、松山街道に沿って黒森山(1017m)を経由して鈴ケ峠へ行き、旧池川町南谷へ下る。私は、別の用件があって参加できないのだが、下見には行っている。自然と歴史のロマンと現状認識に得がたい経験となろう。 :e8dw
作成者 tsurarenaisakana1 : 2012/9/22 (土) 18:27 [
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