2012年11月18日日曜日

民主主義と立憲主義


1689年 1789年 1889年 1989年
 この100年違いの年表が何を示しているか。
1689年は、イギリスで権利の章典が生まれ、
1789年には、フランスで人権宣言が生まれ、
1889年には、日本で大日本帝国憲法が生まれた。そして、
1989年には、ソ連・東欧圏で一党支配体制が崩壊し、世界史は大きく変わった。
  権利の章典は、絶対王政を倒した後のクロムウェル独裁を経て、議会を中心とする体制(国民主権)を新しい王権との間で協定したもの、 
 人権宣言は、フランス革命によって人民主権(国民主権)を確立した文書、
 大日本帝国憲法は、ドイツに学んで、絶対王政の天皇制とその王政が事実上無視できない力を持つ帝国議会がバランスを保つはずの政治の仕組みを作った。
 ソ連・東欧圏では、一党支配崩壊後、憲法裁判所が軒並み作られるようになる。
 この四つに共通するテーマは、「民主主義」と「立憲主義」である。前二者イギリスとフランスは「民主主義」、後二者日本と日本が学んだドイツとソ連・東欧諸国は「立憲主義」である。
 「民主主義」は選挙で多数を取ることで権力を握る。国民(人民)の名において権力を行使する。民主を推し進めれば進めるほどまっとうな世の中になっていくという期待があったが、しばしばそれは惨憺たる結果をもたらした。ヒトラーのナチスは民族社会主義ドイツ労働者党、人民の選挙で第一党となってワイマール憲法をひっくり返してしまった。スターリンは人民の名において「人民の敵」を粛正し、ユーゴスラビアのミロシェビッチも選挙で権力を握り権力を強化した。イラクのサダム・フセインは選挙ではないが国民投票での支持で人民の名の下に統治を行った。
 対する「立憲主義」は、権力に勝手なことをさせないという考え方であり、ドイツ帝国憲法がその最初であった。ドイツには300を越える小さい国家があり、統一が困難であったが、プロイセンがナポレオン3世のフランスに勝ってドイツ帝国の統一がなり、1871年憲法を持ったのであった。プロイセン国王がドイツ皇帝になり、君主権力が非常に強い。対する議会は決定的に優位に立つところまではいかない。君主といえども勝手なことはできないけれども、議会も圧倒的な優位には立たせない、つまり権力の相互抑制という性格を持った仕組みである。これを「立憲主義」という。イギリスやフランスは「民主主義」であり、ドイツは「立憲主義」であった。そのドイツも「ワイマール憲法」で民主主義となり、先ほどのヒトラーを生み出してしまう。そのドイツ帝国憲法をお手本にしたのが「大日本帝国憲法」であり、その成立の中心になった伊藤博文も井上毅も君権を制限し臣民の権利を保護するのが「立憲主義」だと考えていた。「民主」の名において非人間的支配を行ったソ連・東欧の一党支配の崩壊後、「立憲主義」の復権が始まったのである。大統領・首相、議会も選挙で選ばれる「民主」であるが、議会の作った立法をも憲法を基準として無効と判断できる「憲法裁判所」が西ドイツ・イタリアに始まり、スペイン・ポルトガルと広がり、旧ソ連・東欧圏にも続々作られていくようになった。民主主義社会においては、多数派による権力行使にも歯止めを掛けるという意味で「立憲主義」が唱えられている。
 日本国憲法に規定される「違憲立法審査権」、日本の裁判所はどこまでだらしないのか、腹立たしい限りである。しかし、近い選挙、「民主主義」の負の面だけでなく、正の面も立証したいものである。
  参考文献 樋口陽一「個人と国家」(集英社新書)